サーフィン事始
サーファーっていうのは奥が深い!そう思うようになったのは、まだ最近のことです。中学生の頃に同じ学校に通っていた同級生数人が、電車に乗ってイソコや、伊勢方面によくサーフィンに行く話をきいて内心では、『波のない大阪でサーフィンやるなんて、アホちゃうか?』って正直思っていました。ごめんね!みんな!
で、、、
私は、はじめてサーフィンという物に乗っかったのが、高校生の2週間程度のハワイ旅行の時。毎日毎日、ワイキキビーチでミニタンクを借りて乗ってました。今33才だから、16,7年くらい前です。でも大阪に帰ったら波がないので、サーフィンじゃなくて貝塚市の二色の浜でウインドサーフィンをはじめていました。当時、二色の浜セイリングクラブという団体があり、クラブハウスもあり、カナリ大きなローカリズムがありました。たしか浜は突堤を挟んで2つに分かれていて、海に向かって右側の浜は、クラブメンバーでなければ浜にいれてもらえないというのがあたりまえの状態。西村さんというおじさんは、ハンドマイクと竹刀を片手に、怒鳴りながらビジターをひたすら排除するという毎日。(今では考えられない。)西川さんというサーファー&シェイパー(West
Riverという板)のロフトもクラブハウスの横にあり、ちょっとヤクザ(^^;;;で恐そうだけどとってもやさしい川上さんなど、ここでいろんな話を聞き、一応ローカルの仲間入りをしてました。海には秩序がありとても乗りやすい海でした。
学生時代はバイトと海と冬山(スキー)三昧でした。どちらかというと海よりも冬山の方が好きだったように思います。しかし、社会人になり東京で就職し、九十九里、検見川浜、富津とウインドサーフィンポイントに近いということで、千葉に住むことにしました。なぜか湘南方面に住むのは恥ずかしく感じがしたのです。関西弁の湘南ボーイって変でしょ?で、会社に行くにも海に行くにも1時間以内にいけるところを探して、はじめは、船橋という場所に住むことになったのです。当時はウインドサーフィンで波に乗るなんて夢のまた夢、細いガンタイプファンボードで、ただひたすらまっすぐ走りスピードに狂うという状態でした。検見川で波が立ったら、船橋海浜公園に行って波をかわすなんていう行動までとっていました。(^^;;;
数年後には千葉市に引越し、夏も冬も検見川に通いつづけるようになり、よく一緒にウインドサーフィンしていた同じ会社のK先輩(現在会社を辞めてマウイ移住計画中のため名前は出しません。)のウエイブボードを作っているという話に刺激され、実家に帰ったとき、父がよく行っていた堺にあるバッドボーイズというサーフィン&ウインドサーフィンショップで、私は、中古のウエイブボードを買ってしまいました。そこから検見川オンショアの強風が楽しみで、北東の風が吹けば、いつものように九十九里の豊海に通っていました。波にのる楽しさを憶えはじめ、本当に波に乗るのが楽しくてしかたがない!そんな状態の時に、二色の浜の強烈ローカルの西村さんがガンで亡くなり、関西空港の工事が二色の浜でも着工され、ウインドサーフィンを憶えた二色の浜ビーチではウインドサーフィンポイントが縮小され、悲しい思いをしました。しかし、その思いは何処かにしまわれていました。
九十九里でウインドサーフィンをやるポイントが、なぜ豊海だったのか?それはやはり意味もわからず、ローカリズムが恐かったからだと思います。サーファーとウインドサーファーではサーファーの方が優先。当時のウインドサーフィン雑誌では九十九里のポイントは豊海と片貝しか紹介していませんでしたし、家から一番近い九十九里ポイントが豊海だったからでした。
そうこうしているうちに、検見川ローカル達の輪が広がり、彼らと、ウインドサーフィンの練習の意味で、九十九里ビジターとして、サーフィンを、はじめるようになりました。
ローカルも、所変われば、皆ビジター
2000.12.15